【まえがき】
これを書き始めたのは妻が他界して2週間以上過ぎた2020年10月11日のこと。
寂しさ・悲しさ・愛しさ・後悔他、自分ではもはや冷静な判断の出来ないところまで混乱した精神状態から逃れたい気持ちから書き始めたような気がする。
自分本位な僕と対照的な自慢の妻の事をただ知ってもらいたいという思いで書き殴ります。
意味があるのかどうかは知りませんが、これを書かなくてはいけない衝動に突き動かされての行動です。
やることなすこと、気合・根性といった非論理的な行動原理で暴走する僕を、一歩引いた場所から、落ち着いて現実的な事柄として処理・実現すべく、常に僕を支え続けてくれた妻がこの世にいない事を認めたくない。
既にこの世にいないことはわかっている。触れ合うどころか、毎日繰り返していた他愛のない会話さえもできない事もわかっている。
だから、その虚しさをぶつけるようにごまかすように仕事を全力でこなしている。
しかし、この5年ほどで僕の生きる動機と言おうか、生きる目的と言ってもいいだろう。それが妻の存在そのものという、我ながら驚く状況になっていることに気付いた。
これを依存というのかもしれない。いや、そんな表現上の些末なことはどうでもいいのだ。
とにかく僕が大好きな仕事をどれだけ頑張ってみても、それを分かち合う相手として唯一無二の愛する妻がいないという事がどれだけ虚しい事か。それを毎日突きつけられる。
ところが、我が社は妻と僕との子供である。
僕ら夫婦は子供を作らないと決めて結婚した。
そして、お互いに目的を達成する事にとても強い欲を持つため、僕らが同じ方向を向いて全力で協力し合える事はなんだろう。と思案した結果、我が社を子供として考え、そう付き合おうと決め、公私の別なく、ひたすら全開で仕事に打ち込んできた。
そう。
妻がいること自体が仕事の動機なのに、その妻がいない。
しかし僕らの子供を片親とは言えきちんと社会に残すべく一人前にしなければいけない。
しかし・・・という生き地獄。
妻が誰よりもつらかったはずなのに、一切弱音を吐かず、自分勝手な僕の活動に弱った体を引きずりながら、最後の瞬間まで本気で一緒に闘ってくれた、最愛の妻が走り抜けた最後の日々を僕の視点で綴ります。
【その日がきた】
2020年9月23日14時42分。
妻が死んだ。
42歳のことである。
狂いそうだ。
よく物の本や映画やドラマなんかで、身を引き裂かれるような思いといった表現を使うが、そんな痛みはひとつもない。
ただただ力が出ない。何もする気が起きない。一緒に死にたかった。そしてひたすらメソメソと泣く時間がしばらく続いた。
【その敵 間質性肺炎】
上葉優位性間質性肺炎。
紙切れには死因:突発性間質性肺炎と書いてある。
僕が誰よりも何よりも愛する妻の命を奪った憎い憎い敵。
時期的にCOVID-19だとか、細くて小さな身体からはガン等と連想されているようだが、そうではない。
3年以上前からおかしいぞ?となり、病院嫌いな妻が通いやすいよう、職場である厚木市近辺の総合病院だけに絞り、セカンドオピニオンを含めて診てもらったところ、どこも同じように「気管支拡張症」だという。
結果としては、目に見える症状としてはその通りだった。
その実「間質性肺炎」という、呼吸器系の弱いご老人のかかる病気だそうで、やっかいな合併症を引き起こしやすい、いわば不治の病ともいえる難敵に罹患したことを後になって知った。
それを知ったのは東京清瀬市にある東京病院での事だった。
ある日から咳が止まらず、妻の背中を触ると何やらゴロゴロとおかしな感触が伝わってくる。気胸では?と疑って、場所を選ばず呼吸器系専門としては日本一の呼び声高い院に、愚かな僕は「早く治るといいな~」といった軽い気持ちで診察に行ったところ、ドクターが蒼い顔をして「すぐに入院してください」と言う。
そこで僕は現実から目を逸らしたのだと思う。
話を聞いてはいた。
ドクターが話す内容を覚えているものの、お得意の気合と根性で、どうにかなるどうにかすると信じたい気持ちで、ドクターが発する意地悪な言葉をなかった事として塗りつぶそうとしていた。
結論としては、覚悟はしてくださいという趣旨だった。
そんなこと妻に伝えられるわけがない。
現実的な対応として、非常に高額な治療になるため、最終的には難病指定を受け、負担上限月額を定めての治療となった。
こうして突然、間質性肺炎との闘いが始まった。
【検査入院】
そいつとの闘い方にはあまり方法はなく、結論としては
1. 肺に巣くうカビ「アスペルギルス」を抑え込む。
2. それの状況が落ち着いたら、角質化している肺をマシな状況にする。
これを辿るだけだ。
いずれも治験である。これが「実現できれば」しばらく落ち着いた状況で生活できるだろう。
ただし、最終的には肺移植を視野に入れておくべきとのこと。
その方針に従って、妻の検査入院が行われた。
結果としては、その方針通りに行くことは決まったのだが、1週間以上に渡る入院による体力の劣化が激しい。
病院やドクターには一切問題や責任はないし、責任転嫁を嫌う僕が文句の1つも言いたくなるくらいに妻が劣化している。
何度も泣きそうになった。
しかし辛いのは妻だ。泣き顔を見せるわけにはいかない。
いつも僕の前ではニコニコしている妻が、笑う事さえも辛そうな顔でゼェゼェ息を切らせている。
いつものかわいい表情を見たい。
絶対に何とかしてやるんだ!
【アスペルギルスとの闘い】
簡単に言うと真菌。そうカビだ。
水虫で聞く事はあると思うが、アレと同じ真菌系の根治不能なカビである。
まずこれを抑え込むための治験が始まった。
当然どんな体調の変化を起こすかわからないので、約2週間に渡る入院から始まった。
妻からの連絡が頻繁に入る。
要約する。
副作用があるって聞いていたけど、視界が少し狭まるとか視野の一部が黄色っぽくなるくらいで、別に体調はなんともないし食欲もあるよ~。とのこと。
毎日ヒマだー、仕事したいー、柴触りたいーといったメッセージが送られてきて、心は元気だな。と。
※柴というのは僕の事です。柴犬を飼いたいが妻はペット禁止な病気のため、僕の事をずっと柴犬っぽいから柴だ。といって夫婦二人の時、妻は僕の事をよく柴と呼んでいました。
毎日病院で何があったとか、退院したら何をしたいとかどこに行きたいとか、今後の会社のありよう。そういった事をメッセンジャーや時には電話で話し合った。
今風に言えばリモートワークになるだろうか。
毎日引っ切り無しに飛び交う受注メールや問い合わせや海外とのやり取りを見ながら妻は心配になるのだろう、僕が手を付けていない部分を見ては、そこのケアをしてくれる。
もはや説明をしなくても、呼吸で仕事をできる環境を作り上げた僕らは最強だ。
こんな調子で治験入院から退院してきた妻は、残念ながら劣化していた。
入退院を繰り返すたびに弱っていく姿を見てズキッと心が痛むが、顔や態度には出せない。
とにかく妻への負担を減らしつつも、慌ててマズい状況だと悟られないように、彼女が求める環境を整えられるべく全力を尽くす。
ここからはひたすら処方された薬を飲み、定期的な検診を続けたが、一向に咳が止まらない。
数値上では横這いとのこと。これが何ヶ月も続く。
そして声がかすれて何を言っているかわかりにくい日々が始まった。
体力も目に見えて衰えていく。会社でも引っ切り無しに咳を続けて、疲れ果ててしまうのだろう。辛いだろうに泣き言を一切言わない。目を離すとウトウトと寝ることが日に日に増えていった。
我慢できなくなった僕は「お願いだから仕事を休んで欲しい」と懇願して家で療養してもらう事に。
ほんの1週間ほどの休養だったろうか。
このせいで妻を更に衰えさせてしまった。
彼女から仕事を奪う事が、悪い方向に働いてしまったのだ。
改めてきちんと彼女と向き合い、無理のない範囲で好きにしてください。と伝えた。
弱い僕なりに覚悟を決めたつもりの瞬間だった。
とても心配だが、何をどう調べて行動しても根本的な解決に辿り着くことができない。無力感から涙が零れ落ちる。こんなにも僕に尽くしてくれている妻の危機に役に立つことができない。
他人にこの状況をバラしたら殺すと妻の口から出始めたのはこの頃だったろうか。
要約すると「同情されることで根治するならば、いくらでも同情を引く努力をするけど、何一つ改善しないなら時間の浪費だ」と言い放つその姿は、もはや時間的余裕は残されていないと覚悟しているかのようで、僕の心を抉る。泣くのを我慢するだけで精いっぱいだ。
ある日「次の段階に進む」と病院から告げられた。
【角質化(線維化)との闘い】
アスペルギルスとの闘いの結果、ドクターは言葉を濁しているが芳しくなかったことは伝わってくる。
体力的にも妻の限界に近付いているのだろう。
アスペルギルス対策の薬は角質化対策の薬とは共存できないため、アスペルギルス対策の投薬をやめ、角質化対策に踏み切る事に。
角質化というのは、カカトを思い出してもらえればわかりやすいだろう。あのガサガサに硬くヒビ割れた状態。それを想像してもらえればいい。
健常者の肺はゴム風船だが、妻の肺は紙風船。この角質化により肺胞がつぶれ、この時点で妻の肺は半分も機能していなかったのではないだろうか。
ここにアスペルギルス菌(カビ)が繁殖し、肺を侵食していくのを、薬によってギリギリの状態に抑え込んでいた。
角質化対策の薬は、いわば間質性肺炎におけるウルトラCだそうだ。
効けば一気に楽になる(根治するわけではない)可能性もあるそうだ。
それに期待というより藁にもすがる思いで妻を治験入院に送り出す。仕事をしながら、毎日祈っていた。
結果は2日目に出た。
投薬初日から気持ち悪い。食欲がない。全部吐いちゃう。とメッセージが入る。それでも妻はとんでもない根性で抑えつけようとするが、副作用により肝臓の数値がもはや根性でどうにかなるレベルを遥かに超えてしまい、2日目にして投薬を諦めることに。
ここからの2週間は、ただただ肝臓の数値を元に戻すためだけの入院となった。
入院中に写真を送って欲しいと言っても一向に送ってこない。
メッセージでは当初元気を装っていたが、少しずつ弱気になっている事が伝わってくる。
退院の日がやってきた。
愛する妻の姿を見て、自分の目を疑った。
頬はこけ、とても似合うベリーショートは白髪だらけになり、精いっぱい作っているのだろう弱々しい笑顔でヨロヨロと近づいてくる。どれだけ辛く苦しい思いをしたのだろうか。妻の苦しみを少しでも分けて欲しい。
酸素や杖や車いすは頑として受け付けない。そんなものを使ったら身体が甘える。と言って聞かないのだ。
必死に涙をこらえるが、ポンポンと頭をたたいて「お疲れ~。ちょっとトイレ。」と一言だけ伝え、我慢しきれずトイレにゆっくりと逃げ込んだ。
覚悟はしていたが、今までにない弱り方にどうしても考えたくない将来を連想させられる。
【移植に向けて】
ついに最後の手段である肺移植を決断。
正確に言うと、もはやそれしか残されていない。という状況だ。
東京病院から肺移植のトップである東大病院を紹介され、話を聞きに行き、淡々と入院に向けての説明を受ける。
一刻も早く移植の権利を手に入れて、少しでも元気な状態で・・・と思いこもうとはするが、その実、弱り切った妻を見て、果たして手術に耐えられるのだろうかと心配になる。
検査入院は2020年10月7日に決まった。
ここさえクリアして、移植まで「平均」2~3年待てば・・・
2~3年・・・
そんな長期を生き抜けるだけの体力はあるのだろうか。生き抜いたとしても手術に耐えるだけの体力は残っているのだろうか。ドナーあっての移植だ。身体がとても小さな妻にマッチする肺はあるのだろうか。そもそもその待ち時間は平均値でしかなく、それがどう転ぶかもわからない。もはや呆然としながらも祈るしかない状況に心が擦り切れていく。
どんどん僕にできる事がなくなっていく。
できる事は妻との時間を大切にすることだけだ。
【盛岡へ】
妻は岩手県盛岡市出身である。僕も舌を巻く粘り強い性格は北国ならではなのだろうか。
同じ病気で父親を亡くした妻は、どうしてもその現実を母親に伝えづらかったため、今の今まできちんとした状況説明をしたことがなかった。
丁度僕の仕事の都合もピッタリと合い、これはきちんと義母に説明をした上で妻に実家でゆっくりと休養してもらえる機会だと思って、「体調が良いなら」という絶対条件下において盛岡に説明に行くかい?との相談の上、体調が傍目にも悪くなさそうな状況だったため、シルバーウィークを利用して盛岡へと車で出発した。
【風車とひまわり】
郡山布引高原風力発電所
僕が福島の林道ツーリングで出会う事ができた、風車とひまわりが名物のステキなスポットだ。
いつの間にか僕にとってのツーリングは、行動範囲が見る見る狭まっていく妻に、TVや雑誌やインターネットでは体験できない風景を見てもらいたい一心で行なうものになっていた。
前年にここの写真を妻に現地から送ったところ、「ずるい!連れてけ!」という言葉を覚えていたので、盛岡への道中、偶然を装って寄り道をすることに。
現地に到着し、
妻:アレ?ここってもしかして?
僕:あ、ホントだ~。こんな偶然ってあるんだね。
妻は顔をクシャクシャにして笑った。
僕:疲れているなら車から見るだけにしておこうよ。
妻:ううん。ちょっと歩きたい。
ゼェゼェ言いながら、健常者なら10~20秒で辿り着けるところまで駐車場から5分近くかけて歩いた。
抱っこするよ。おんぶするよと言っても、身体が甘えるからダメと頑なに断ってくる。
そこに到着して振り向いた瞬間、柔らかな笑顔を撮影できた。と同時に彼女が発した言葉で、僕はついに妻の目の前で泣いてしまった。
妻:死んじゃダメだよ。
ふざけんなテメーの事だよ。というだけで精一杯だった。
それが妻の最後の笑顔の写真になった。
【実家にて】
最低限の病状の説明を義母に済ませ、疲れた体を横たわらせた妻は、「あ~疲れた。寝るね。」と言って、昔の自分の部屋で横たわった。
心配だったが、一緒に寝られるスペースもなく、「調子悪かったらすぐに電話するんだよ」と言って僕は客間で寝ることにした。
翌早朝5時半ごろに電話が鳴った。
妻:なんかおかしい。
僕:すぐに行くから待ってて。
部屋に着くと、外に響くくらいにゴロゴロと小さな異音がする。
気胸だ。
普段全然汗をかかない妻が大汗をかいて布団がビチャビチャに濡れている。
すぐに救急車を呼んだ。
妻:あ、やばい。
血を吐いた。
彼女の姿勢を整え、吐血で窒息しないようにする。
間もなく救急車は到着し、盛岡最大の病院に搬送された。
【病院にて】
かなりマズい状況とのこと。
それでも最後まで希望を捨てなければ・・・と信じたくて祈り続ける。
妻がホースだらけになっていく。
呼吸するだけで精一杯じゃないか。誰か助けて!
何もできない自分にイラ立つ。
その状況に立ち会った僕と義母にできる事はなにもなく、ただ無力なだけで一旦病院を後にした。
妻の事が心配で何も手につかない。
【ささえて】
一睡もできないまま翌朝を迎えた。
2020年9月23日7時30分の事。
病院スタッフから連絡が入る。
「今すぐに来てください」
声のトーンが普通ではない。慌てずに話を聞く。
「急変したので、すぐに病院に来てください」
義母を起こしてすぐに病院へ向かう。
コロナ禍にあり、本来であれば面会できない妻に会える事が、もはや切羽詰まった状況を突きつける。
嘘であって欲しい。
あのかわいらしい妻が言葉も発することができず、必死になって生きようとしている。
何とかしてくれ!誰か助けて!
泣かないようにして、ただただ手を握っても、妻は苦しいだろうにこちらを一生懸命穏やかな表情を作って、声を発しようとしている。
何を言おうとしているかわからない。
僕:手に書いて。
妻:さ さ え て
僕:当然でしょ。
妻はホッとした顔をして目を瞑った。
これが僕らの最後のコミュニケーションとなった。
僅かなモルヒネ投与をすることで苦しそうな表情も和らいだ。
【決断】
あまりにも苦しそうなので、さらなるモルヒネ投与の決断を迫られた。
これは事実上の安楽死である。
僕に妻を殺すことの決断を迫られている。
以前から妻とはこういった場合の希望は話し合っていた。
植物状態になったり、自立した生活ができないなら、無理に生き永らえさせるのはやめて欲しい。
これは僕ら夫婦の共通した意見だった。
気が狂いそうだった。
心が壊れそうになりながら決断をした。
「お願いします」
そう言って妻の元に駆けよった。
【ありがとう】
血中酸素濃度90前後。
耳元で「愛してるよ」と呟いてホッペにキスをすると、目を閉じたまま弱々しく口角が上がる。
見る見る数値が下がっていく。
反応が弱い。
認めたくない。
ふくらはぎのポンピングで何とか血中酸素濃度を下げないように必死になる。数値が下がるのを止められない。
ガクガク震える手と声を止め、きちんとお別れを伝える。
「お疲れ様」と呟くと、少し息を吐いたように見えた。
「ありがとう」と呟くと、彼女の右目から涙が落ちた。
あとは「ありがとう」としか言えず、オデコにキスをした。
ピ―――――――――――――――
ついにその時が来てしまった・・・
【また会おう】
肉体こそ別個だったものの、もはやお互いの境界線がなくなってしまったかのように一心同体な関係だった妻が他界した。
もっと何かできたのでは。もう少し永らえる事もできたのでは。
その思いに押しつぶされそうな日々を過ごしながらも、妻であればこう考えるだろうと思って、妻と約束したことを実現すべく奮闘しています。
これからやりたい事、行きたい所、食べたいものを山ほど残して妻は逝ってしまった。
今まで妻はこの自分勝手な生き物に振り回されたのだから、今度は僕が妻のために捧げるつもりで生きてみようという気持ちに突き動かされています。
あまりにも強引な事の進め方をしようとする僕に、妻はよくこんな話をしました。
妻:そんなことばっかりして。離婚だ!
僕:うんわかった。離婚しよう。じゃ再婚ね。
こんなにも人を愛したことはありません。
妻と一緒に夢見たものは具体的なようでいて、その実、掴みようのないものでもあります。
これさえあれば愛して止まない妻を見失わずにいられると思えるほどにとても大きな目標。
妻が常日頃僕に言い続けた「最後のその瞬間までカッコつけ続けてね」、そして他界する2日前に強い覚悟と共に口にしたであろう「死んじゃダメだよ」を胸に、できる事を着実に粛々と。
僕の中にい続ける、幸せそうに微笑む妻と共に。
僕のために一生懸命生きてくれた妻であり戦友でありライバル 奈緒子へ。
「愛しているよ。ありがとう。また会おうね。」
妻の居場所 (有)BONSAIから
夫であり戦友でありライバル
多川 潤