結局今際の時まで、妻の状況が非常に追い込まれているものである事については、お互いに明確に言葉にすることはないままだった。
僕はドクターからその状況を聞かされていたが、妻には明確に「覚悟はしてください」という言葉は伝わっていなかったはずだと認識している。
そうして逃げ続けた理由は、言葉にすると現実になってしまうかもしれない事が怖かったのだ。
妻のためという気持ちだったのは間違いないと思っていた。しかし、今になってみると、自分を守るための行為だったのでは。と自分を許せなくなる。
また、今最も後悔に苦しんでいる事であり、この先自分を許すことができない大きな問題がある。
それは、いつも通りでいようとしすぎた事だ。
妻が追い込まれている状況である事は重々承知していた。
しかし、調べても調べても、彼女を根治させることができない。
それならば、できる限りいつも通りの姿で彼女と接しつつ、何かあった時には自分にできる事を何でもするんだと割り切って、準備を万全にしておきながら、それに備えようと舵を切ったのだ。
しかし、結果としては万全の準備なんてできるわけもなく、数年に渡る闘病とは言え、急変によって彼女は他界してしまった。
「あの時あれをしていれば」「喧嘩してでもこうしていれば」といった後悔が津波のように押し寄せ、どうにもならないとは理解しつつも、遺影に向かっていまだに毎日のように彼女を思い出しては涙を流しつつ、後悔のような謝罪のような感謝のようなまとまりのない気持ちが続いている。
そんな生活の中で見つけたファイルがある。
「私が死んだら」というタイトルのテキストファイルだった。
文頭に、「あなた以外に見せたら殺す」と書いてあるが、見せはしないので許してくれ。
【その1:業務について】
仕事に関すること細かいマニュアルのようなものから始まって、今抱えている問題と解決案、今後実現したい事等、二人で確立してきた業務内容と改善案。そして僕の現状および今後どういう存在に仕立て上げていきたいか。
これは内容を公表できないものなので割愛。
しかし、妻の思いは痛いほど伝わっている。何としても全て実現してあの世で再会するんだ。
【その2:僕に対する不満】
時々だけど、仕事が忙しすぎて運動をサボること。
これによって緩んだ肉体になる事は許しがたい。
バイクに乗る時間を作るのが困難なのはわかっているけど、僅かなチャンスでバイクに乗ることができた時、その時の最大のパフォーマンスを発揮できる肉体と精神と頭脳にしておかないと許さないとの事。
これがボルダリングをしつこく続けている理由です。
他にも色々書いてあったが、概ね解消済みのようでつまらないとの事。
※彼(僕)の業務を行うにあたって、その特性を活かしつつ改善する点においては、という意味であり、素晴らしい人間という意味ではない。勘違いするな。とも書いてあった。
ただ、僕としては、やはり自分本位だなと反省することが多いので、これは改善すべき妻との約束として心に強く留めておきたい。
そして、これがきっと一生忘れる事の出来ない衝撃的な文章。
忙しいから私の病気の事なんてマジメに理解する事なんてできないよね。
完全ではないかもしれないけどきちんと理解していたよ。
私なんてポンコツになっちゃったから足手まといだよね。
そんなこと一回たりとも思ったことはないよ。
一刻も早く治したい治って欲しいという一心だったよ。
全てにおいて急いで動く態度がそう思わせてしまったのだろうか。
ごめんね。
思ったこともない事が書いてあった。しかし・・・愛する妻をそう思わせてしまった。そのまま逝かせてしまったのかもしれない自分を決して許すことはできない。
【その3:自分(妻)のこの先】
そのセンテンスを妻が書いた日程が約3年前。その時点で長くても3~5年の寿命だろうと書いてあった。
追記にあった肺移植について。万が一うまく行ったとしても、それはオマケであって、とにかく今すぐに僕のためにできる事を全てやり尽くさなくてはという使命感に溢れる文章ばかりが書いてあった。と同時に時間が足りないともあちこちに散見された・・・
妻の言葉で強く頭に残っているのは「同情」についてだ。
時間の浪費だ。という一文。
これに通じる内容が明確にあった。
泣いたり同情を受けたりなんて暇はない。そんな時間的余裕は一切ないのだ。マジで!
そう書いた時の妻の心情を思うと、涙が落ちた。
泣きも騒ぎもせず、無駄なく粛々と事を進める妻がこんなことを考えながら全ての準備をおこない、僕に妻特有の業務のこなし方を叩き込んでくれていたのだと思うと胸が張り裂けそうだ。
【その4:あなたとの生活】
ここは僕視点を多分に交えて書き記したい。
僕が妻を好きで好きで結婚してもらったと思っていた。
ところが、読み進めていくと、僕が妻にまんまとハメられたようだ。
この流れを説明するには、あまりにも長文になってしまうため割愛します。
そのため、僕が泣きながらファイルを読み進めつつ「マジか!」と衝撃を受けた部分のみ抜粋。
あの人(もちろん僕の事)は自分からの意志で私と付き合って、結婚したと思っているようだが、それは違う。私(もちろん妻の事)がそう仕向けたのだ。
これは痛快だった。
まさか妻がそんな器用な事をできると思っていなかったところ、他界してからこんな事を知るとは。惚れなおしたぞ。
そして、僕との生活。
付き合い始めてから衝撃の連続だったそうだ。
空気を読んだり周りに合わせる事を優先せず、とにかく「すべき事柄」を最優先にガンガン前に進むその姿に、憧れと心配が同居する複雑な心境だったとのこと。
ただ、それを妻は個性として捉えてくれ、それを長所として、勝負できる材料として磨くよう仕向けたとのこと。
もちろんそこ(僕の特性)には大きな問題もあり、それを修正しつつ、どんどん妻の求める形に変化させていったとも。
自分を変えることに何ら抵抗のない面白い生き物というのが僕に対する妻の評なのだが、そんなことはない。僕だって自分を変える事には抵抗もあるし、どうすれば成功するかな?という気持ちと同時に失敗したくないな~とも思う。
でも、やっぱり最終的には妻が喜ぶ顔を見たい一心から、そんなことはどうでも良くなるというだけの事。
要するに。
妻は、僕を使って色々な事を実現していくのが楽しくて仕方がなかったようです。
何より、僕がそうコントロールされていると全く感じさせないコントロール方法に脱帽。
むしろ何でそのまま続けてくれなかったんだと文句の1つも言いたくなる。
このファイルには膨大で強い意思が詰め込まれており、もはやこれが妻と僕との未来と言っても過言ではありません。
大事にするよ。
死んでなお僕をコントロールし変え続けてくれる妻は、文字通り小さな巨人です。
【1個体としてのこれから】
詰まるところ僕は今でも妻にベタ惚れしているし、他界こそしてしまっているけれども、彼女が僕を形作っている事実もあり、実体がなくなっただけで彼女の存在を毎日強く感じながら生かされている現状だという事です。
業務中に僕が近くを通ると「見んな」みたいにギッと僕を睨んでパタッとノートPCを閉じていたのは、こういった一連の文章を書いている時だったのだろう。
本来、業務中に関係のない作業を行う事を極端に嫌う性格の妻がそうしていたのだとすると、それが「今すべき業務」として判断するほどに逼迫していたのだろう。
そう思うと、そういった雰囲気から妻の状況や心情を想像することはできなかったのだろうか。と改めて心が痛みもします。
こんな解決できない問題を毎日抱えながら生きていくのだろう。
しかし、それこそが今でも愛している妻と生き続ける事なんだと理解して前に進みます。
【彼女を知る皆様へ】
妻の事を少しでもたまにでも構わないんです。あの小さな身体で頑張っていた姿を思い出してやってください。
彼女の思い出話をされたいのあれば、彼女の事を今でも好きで好きで仕方のない僕が、彼女の自慢話を踏まえていくらでもお付き合いいたします。
彼女の写真があったら、いくらでも僕に送りつけてください。
【愛するきみへ】
君との約束においてクリアすべき事項は山ほどあるけれども、君が構築してくれた様々な地盤と共に、死守すべき事柄として必ず実現するよ。
チクショウ
さみしいよ。